2024.05.25 お寺の豆知識
「お上人さん、人は死んだらどうなるんでしょうか?」
今は亡き当時90代だった頃の曾祖父のお上人は檀家さんからの質問にこう一返したそうです。
「おいは死んだことなかけん、分からん。(私は死んだことないから分かりません)」。
曾祖父らしい、とんちが効いていて面白い返事だなと思っていたこの会話も、改めてよくよく考えると深い意味があることが最近分かりました。
この世で息を引き取った後、人間はどこへ行き、一体どうなるのでしょうか?
みなさんは、自分の「死」を想像したことがありますか?その時に、明確に行き先が示されたなら、どんなに大きな安らぎが得られることでしょうか。
よく聞く話ですが、人は亡くなると、まず三途の川を渡ると言われています。
この時にこの川を渡る渡し賃が六文と言われ、葬儀に先立ち、亡き人を棺に納めた時に六文銭を共に納める習慣になりました。歴史上のかの有名な真田家の家紋も六文銭になっています。戦でいつ命を落としても良いという覚悟も込められていたそうです。
「三途」と書くように、河を渡る方法には三通りあります。生前良い行いをした方は船や橋で川を渡ることができます。罪の軽い方は浅瀬を渡り、悪人は深い急な流れを渡らなければなりません。
三途の河を渡りきると、奪衣婆(だつえば)という鬼が皆の服を脱がし、懸衣翁(けんえおう)という鬼がその服を木に懸けます。服が濡れていると枝が大きくしなり、乾いていればしならない。そのしなり具合によって生前の行いの善悪を判断するそうです。
この世での善行・功徳を多く積んだ人ほど安心してこの川を渡ることができるということです。なかには、自分の濡れた服を善人に着せ知らん顔をする人もいて、他人に無実の罪をきせる「濡れ衣を着せる」という言葉は、これに由来します。
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日蓮聖人は御遺文『波木井殿御書』の中でこのようにお示しになられています。
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「此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋也。霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給え、必ず待ち奉るべく候。」
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上記の御遺文は、お葬式では必ずお読みしている御遺文です。法華経やお題目の力で三途の川では舟となって我々を濡れずに渡してくれる。
また、亡くなった人の魂が集まる丑寅の門では日蓮聖人が必ずお待ちになっておられるという意味が込められています。このお言葉を信じ、死を前に不安になるのではなく逆に安心しなければなりません。臨終を見定めると今を頑張ろう、今できることを精一杯しようという活力に変わっていくのです。
曾祖父も、「死後のことはわからない」という言葉の中に、「未来の事ばかり考えないで、仏様は必ずその頑張りを見ているから、安心して手を合わせ日々勤めなさい。」という事を言いたかったのだと気づきました。
そして私自身、改めて何気ない日々の信仰や言動を見直すきっかけになりました。
みなさまも是非一緒に改めて日々のお経・お題目を丁寧にお唱えして、心の宝を貯えていきましょう。