2023.06.15 台湾慰霊
今日は少しばかり台湾のお話しを。
日本からのアクセス抜群で治安が良く見どころ満載の台湾は、人気の海外旅行先ですね。
行先では台北が一番人気で、台北101や千と千尋の神隠しの舞台ともいわれている九份。
小籠包を食べて・・・というのが王道の観光でしょう。
そんな台湾の一番南に、中々行く機会がない場合がないですが、
「台湾のハワイ」と呼ばれるリゾート地「墾丁」(クンディン)があります。
「行きの車は多いけれど帰りの車は少ない。」とも言われ、綺麗な海と白い砂浜。すべて
の人を魅了してやまないそんなリゾート地が台湾にもあります。
少し前の映画 「海角七号」(https://eiga.com/movie/54820/) 引用:映画.com
の影響で、国境南部の墾丁街は人気の観光地となり今はリゾート開発が進んでいます。
さて、この台湾映画「海角7号」も実は台湾が日本統治時代を過ごした頃のお話しで
いわゆる悲しみのラブストーリーとなっています。
実際、恒春半島には本当に多くの胸を締め付ける戦争の物語があり、知られている戦争の
名所の中でも年配の世代にとって最も印象的なのは、台湾のすぐ南の海峡バシー海峡のあ
たりではないでしょうか。
その慰霊記念のお寺「潮音寺」は台湾の最南端の付近に位置しています。
▼MAPでみると台湾の一番南の先にある「猫鼻頭」というあたり
台湾すぐ南、魔の海峡”バシー海峡”
台湾の南部に位置するバシー海峡は第二次世界大戦中、南方戦線の重要な関所となっていた場所でし
た。アメリカ軍潜水艦による群狼作戦により、その海峡を通る船は軍事民間関係なく、沈められたと
か。沈められる日本の輸送船は後を絶たず、やがて同海峡は、“魔の海峡”“輸送船の墓場”とも
言われるようになり、犠牲者の数は10万、20万人にもなるとの見方もあるほどです。
その中でも規模がすごく大きかったバシー海峡の「玉津丸」の難破船でしょう。
1944年8月23日マニラに向けて出港した玉津丸は5000人以上の人をのせて移動していた所、
米軍の潜水艦より撃沈され、たった50,60人しか助からなかったといいます。
その中の生存者の一人「中嶋秀次」さんは、何日間も海を漂っていた末にたまたま救助され、命拾いされました。
海岸にはおびただしい数の死者・負傷者が打ち上げられ、現地の台湾人の恩徳により、
負傷者には救護を、戦死者は丁重に埋葬された事実があります。
戦没者慰霊の潮音寺建立
▲潮音寺建立の1981年の写真
戦後日本に帰国した際、目の前で次々と難破した仲間たちの悲惨な死をよく思い出しては何も出来
ない自分に無気力になり、いてもたってもいられず 1981 年に沈没船が救出された場所、
猫鼻頭公園の入り口からほど近い道路脇に戻ってこられた中嶋氏は、
自身の寄付と生存者から集めた資金で地元に土地を
購入し、戦友の霊を祀る気持ちの一心で「潮音寺」を建てられました。
この一連の漂流記は是非「門田 隆将」氏の「慟哭の海峡」を読んでほしいと思います。
一番詳しく理解できると思います。
しかし、以前は日本人は台湾の土地を買うことができなかったため、中島秀次が台湾の友人の名義で
登記した結果、その友人の子孫が潮音寺の土地を売りにかけリゾートホテル建設の計画が立った。
そして潮音寺も取り壊されそうになったが、何度かの交渉の後最後は裁判まで発展しましたが何とか
地権を取り戻された。中島秀次氏は2013年にお亡くなりになり、その後の管理・維持活動は高雄で
美術工芸業を営んでいた鍾佐栄氏が中心となり潮音寺を修復され、現在は「潮音寺管理委員会」
の委員長を務められています。
我々も潮音寺に慰霊修法供養に向かう前に現在の管理人でいらっしゃる鍾佐栄氏を訪ね
高雄芸品館へ一路向かった。残念ながら鍾氏は丁度日本へ行かれていたらしく不在。
代わりに営業部長さんへご挨拶
し日蓮宗先師のお話しをさせて頂いた後に、早速潮音寺まで向かった。
潮音寺までは高雄市内から車で片道2時間半ほどかかる遠路だ。最初は自力でレンタカーで参拝
しようかと考えていたが、後々振り返ればタクシーをチャーターして正解だった。
移動だけでもキツイ。そして、ようやく今回の目的地、潮音寺に到着。
外は35度を超える熱暑の中、普段だったらしまっている潮音寺の門を開けて頂いた。
▲潮音寺正面
▲潮音寺2F御宝前
▲2Fからの眺め バシー海峡を望む
ここにはかつての戦没者の霊を祀る位牌が沢山安置されている。
▲戦没者慰霊の位牌 ▲潮音寺発起人の中嶋秀次氏
到着後すぐに私たちは慰霊の読経と修法を奉納させていただいた。
したたる汗と熱気で日本ではなかなか経験できない蒸し暑さを経験したが、
戦没者達、供養してきた先師達の苦労や痛みを考えれば心地よくさえ感じるほどでした。
永村伝師と言えば九州は長崎県佐世保の本興寺のご出身で、ご祈祷と言えば
九州では永村伝師とまでいわれた、修行の大行者3200日の修行を達成された
修行界のレジェンド的存在なのです。
永村伝師はご自身も戦争の経験者であり、長年沖縄と台湾には修行が終わると
必ず慰霊修法供養に修行僧と共に供養されてきました。
自伝にもここ潮音寺で供養の写真が載っています。
永村伝師がご遷化されたのが、平成の中頃であったので今年令和5年は、
既に25年近くが経過することになります。その長い歳月の間、供養自体がほんの
一握りの有志だけで細々と続けられてきました。
このお堂に入らせて頂き、2Fの窓から海を見ると、
丁度海の音が聞こえてきそうな距離で、
潮音寺の由来が言わずもがな分かってきます。
そしていつまでもバシー海峡に向かって建てられている。
80年近く前、多くの遺体がこの海岸に流れ着いたことを想像すると、
とても言葉では言い表せない状態だったでしょう。
戦争という愚かな行為は、負の連鎖しか生まない。
このような惨劇は二度と繰り返してはならないと思う。
そして戦後70周年にあたる2015年、ご遺族の方を中心に180名を超える方々潮音寺にて
盛大に慰霊祭が執り行われたのを切っ掛けに
それ以来民間による供養祭が毎年挙行されていて、
戦後75年を記念した時は、コロナ禍だったにも関わらずかなり盛大だった模様です。
最後にあまり知られてこなかった、
蒋介石の自画像がかけられている部屋を見せて頂いた。
▲蒋介石の壁画
▲戦争時代の日蓮宗管長 金子日威猊下の額(破損していたので次回は修復したい)
これは、民国70年と書いてあるので、今年は民国112年。
つまり40年以上は前のものである。
日本全国に蒋介石の御像や徳を讃える碑が存在する。いまやなんでこんなものが
ここにあるのか知っている人は少ないだろう。私もその一人でした。
それは、先の大戦の時代、
第二次世界大戦中太平洋戦争の渦中、「日中戦争」という中華民国と日本の戦い
もあった。日本が敗戦後、シベリア抑留など、非人道的な扱いにあった場所も
多いが、中華民国の蒋介石は、
「憎いのは軍事的指導者であり、残留兵や民間人など巻き込まれた人は被害者だ」
と述べ、本土に残った日本人たちを優先的に日本へほぼ無条件で帰還させた
恩徳がある。蒋介石については、今現代では台湾で賛否両論意見があり、
評価が分かれるのであまり触れないが、
事実だけをみると、戦争下にも関わらず恩赦の念はありがたい。
「怨」という字をみると思いだすのが
かの有名な法句経で
こう記されている。
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」
『ダンマパダ』(『真理のことば・感興のことば』岩波文庫P.10)
甚だ当たり前のように聞こえるが、今もどこかで起こる戦争、紛争、摩擦を
思えばこれは人間の性なのだと思う。少しでもこの気持ちは心の中に持っていたい。
慰霊修法供養の最後に
バシー海峡の霊たちが眠る海辺にて読経をさせて頂いた。
数多の霊よ安らかに鎮り給え。
▲バシー海峡を望み海に向かって読経
今回慰霊供養にあたっては、下記サイトが主体になって管理されています。合わせてご覧ください。
▼潮音寺慰霊供養祭
▼潮音寺管理委員会
http://www.choonji.org/desktopdefault.aspx?portalid=1&panelid=4&tabindex=0&tabid=0